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社会貢献活動-ラオス支援活動
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世界で最も多くのクラスター爆弾を落とされた国、ラオス


■ こうしてラオスにクラスター爆弾は落とされた
赤土の大地に残された空爆跡
クラスター爆弾

ラオスは世界でもっとも激しい爆撃を受けた国であり、人口一人当たりの落とされた爆弾の量は世界一になります。
ベトナム戦争中、大規模な地上戦が繰り広げられ、同時に激しい空爆が行われました。
50万回以上のアメリカ軍による爆撃が、1964年から1973年の間に実行され、ラオス全土に200万トンを超える爆弾が「シエンクワン県を中心としたラオス北部」と「ホーチミンルートの通る南東部の県」に集中して落とされました。

この9年間には、8分ごとに1度、米軍機1台に積載される爆弾が落とされてきたと言われます。また、1kuあたり約20トン、ラオス人1人あたり1トン以上の爆撃がされてきました。

ラオス北部では、シエンクワン県を中心に北ベトナムの兵士も多数入り、ラオスの村を共産化していったことから、これを阻止するためにアメリカ軍は大規模な空爆を行いました。何千人もの一般市民が爆撃から逃れ、非常に多くの国内避難民が発生しました。そしてパテート・ラオの指導部は、本部をホアパン県のサム・ヌアにある洞窟に移しました。

一方ラオス南東部からカンボジア北東部にかけては、北ベトナム軍の兵士、軍需物資の補給ルート、「ホーチミンルート」 が走っていたことから、アメリカ軍により爆撃されました。
北ベトナムと南ベトナムを分断する非武装地帯、北緯17度線は非常に強固に防御されていたため、北ベトナムが南ベトナムへの供給路としての道を見つけなければならない状況にありました。

そこで北緯17度線周辺のラオス・ベトナム国境に隣接したラオス東部を通るジャングルの中に、苦労の末、道が切り開かれました。この道が「ホーチミン・ルート」と呼ばれるようになりました。深いジャングルに覆われたこの道を、ベトコン(ベトナム共産勢力)の戦争を助けるためにトラックや自転車、人々が通っていきました。

アメリカは南ベトナム政権を支えるため軍事アドバイザーを最初に送り、そして航空支援、次に爆撃、最終的に50万の地上部隊を送りました。南部への兵士や軍需物資の流れを妨げるため、米軍機は、北ベトナムだけでなく、この「ホーチミン・ルート」の周辺のラオス領内にも爆撃しました。ラオスは、容赦なくベトナム戦争に巻き込まれていったのです。

事実北べトナムへの米軍の爆撃が停止すると、ラオスへの爆撃は多くなっていきました。1972年までにインドシナ半島での米空軍の空爆の70%はラオスをターゲットにしたものであり、そのうち80%はホーチミン・ルートの地域を狙ったものでした。1965年の1日平均55回の出撃回数だったのが、1968年の後半には、300回にまで増加していました。1962年のジュネーヴ協定によって保護されていたと思われるラオスの中立性は、罰せられることのない北ベトナムとアメリカ軍による戦争の拡大によって、侵害されていたのです。

左-ベトナム戦争概略図:ベトナムVS米国 右-地図:シエンクワン県とホーチミンルートに集中する空爆跡


■ ラオスで使われたクラスター爆弾
ラオスで使用されたクラスター爆弾
クラスター爆弾。ちょうど宮崎の手のひらに収まるサイズ。

これらの爆撃では、2億8000万個以上の対人用の子爆弾がクラスター爆弾からばらまかれました。

米空軍の自由落下型クラスター弾はCBU(Cluster Bomb Unit)、その子弾はBLU(Bomb Live Unit)と呼ばれます。

ベトナム戦争で当初米軍が使用していた主なクラスター弾は、対物・対人用の子弾を搭載したCBU- 2 /AやCBU-14でした。

しかし、これらの爆弾は低空から投下しないと子弾が効果的に散布できず、航空機が対空砲火に晒される危険があったため、より高い高度から投下可能なCBU-24が開発されました。
CBU-24は、対人用の子弾BLU-26を640-670発搭載しています。BLU-26には直径約6mmの鋼鉄球が300個入っており(全ての子弾で約20万個)、爆発により鋼鉄球が高速で周囲に飛散し人間を殺傷するのです。

この子爆弾は、ラオスの人々には、「ボンビー」として知られ、それぞれテニスボールほどの大きさですが、その中に入っている300個の鉄球が、周辺の人々を殺傷する能力があります。

ベトナム戦争当時、米軍のパイロットは対空砲や地対空ミサイルの脅威に晒されており、低空から単弾頭の爆弾を正確に投下することが困難だったため、被爆面積(フットプリント)の大きいクラスター弾が重視されたと言われます。
主要な空爆目標は対空部隊やトラック駐車場で、主に使用されたのは対人用のクラスター弾でしたが、対空部隊の人員を殺傷することで米軍機への攻撃を沈黙させることが可能でした。

クラスター弾による空爆では、民間人の被害者も多数発生しました。その背景には、空爆に際して目標の選定がそれほど厳密でなかった(トラック等を発見次第、攻撃を行うことがパイロットに許可されていた)ことや、爆弾の命中精度の低さをフットプリントの大きさで補おうとした(小さな目標に対してもクラスター弾を使用した)こと等がありました。

米軍は、クラスター弾の使用が批判されることを懸念して、CBU- 2 /AとCBU-14の使用を秘密にせよとの指令を1965年に出しています。1966年にCBU-24が配備された時も、米軍は、兵器使用の是非を巡る論争を避けるため、政府に対して使用の許可を求めることはせず、直ちに使用を開始しました。

こうした直接の爆撃とは別にベトナムやラオス北部上空で使用されなかった爆弾が軍用機からラオス上空で落とされるという、ラオスが自由に爆弾を落とすことのできる領域としても使用されました。当時、大きな爆弾を積んだまま、再び米軍基地に着陸するには、かなりの危険がともなったため、落としそこなった爆弾を米軍機は帰り際、ラオス上空で落としてから帰るということをしていたのです。

ラオスでは、森林に覆われた山や田んぼなどがあるため、このような場所に落とされた爆弾は爆発しない確率が高く、実際の状況において、クラスター爆弾の子爆弾の不発率は30%と推定されています。

そこから爆発せずに残った子爆弾の不発弾の数はラオス政府の不発弾撤去機関UXO-ラオは、推定7800万個、クラスター爆弾の問題に取り組むNGOハンディキャップ・インターナショナルの2006年の報告書『フェイタル・フットプリント』では2090−6260万個と見積もっており、正確な数は分かりませんが、とにかく数千万個の単位で存在することは確かのようです。

UXO-ラオが1996年から2007年12月までに除去した子爆弾の不発弾の数は、371,869個、この数字は、不発弾として残っていると推定される子爆弾全体のわずか0.47%にしかすぎません。

今まで撤去された不発弾の内訳を見るとUXO−ラオでは48%、MAG(イギリスに本部をおき、世界各地で地雷・不発弾撤去に取り組む支援団体)では80%以上がクラスター爆弾の子爆弾だったとの報告があります。
いかにクラスター爆弾の子爆弾の不発弾がラオスの土地を汚染しているか分かります。



■ 枯葉剤の使用も

さらに、ベトナムでは『グエン・ベトちゃん、ドクちゃん』などの奇形児が生まれる原因になったと指摘されている膨大な量の枯葉剤や除草剤が、ラオス領内のホーチミン・ルート周辺でも使われました。

散布された枯葉剤は、日本でいう除草剤に近い薬剤で、エージェントと呼ばれました。ベトナムでは主にオレンジ、ホワイト、ブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、植物の成長や代謝を阻害するものです。

このうち特に大量に使用されたのがエージェント・オレンジでした。稲を枯らすのにはオレンジやホワイトでは効果が薄いため、ブルーと呼ばれる薬剤が用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をもたらすことによって、枯れさせるといわれます。通常の散布作戦の場合、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。危険地帯へ出動するときは、F-4ファントムが護衛の任につくこともありました。現場の森林上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから薬剤を噴霧します。散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。

つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。またその濃度は通常使用時の10倍に及びました。こうして枯葉剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。ベトナムで使用された三種類の枯葉剤のうち、エージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。散布量から換算すると総量170kgに達すると見られています。



■ 不発弾で汚染された国土と貧困

アメリカ軍の爆撃に加えて、フランス植民地時代の独立戦争時代や、第2次世界大戦中の日本軍の進駐時、パテート・ラオとラオス王国軍の戦争を含む地上戦で使われた不発弾、例えば大型の爆弾、ロケット弾、手榴弾、大砲、迫撃砲、対人地雷、簡易爆発装置なども、ラオスの国土がさらに膨大な量の不発弾で汚染されている原因となっています。そのような不発弾は地中に残り続け、人々を殺傷し続けるとともに、社会経済的発展と食料の確保を妨げています。

こうしたすべての爆発物の30%は、爆発せず、地上や地中にいつ爆発してもおかしくない状態で残り続けているのです。

20年に及ぶ交戦状態が終了したあと、1996年から1997年にかけて、不発弾の社会経済的に与える影響の全国調査が実施され、ラオス全土の村の25%で不発弾の存在が報告され、17県中15県において深刻な不発弾汚染が判明しました。ラオス全土が23万6,800平方キロメートルなのに対し、8万7,200平方キロメートル以上の土地が不発弾の危険にさらされていると推測されています。1996年、国連は、ラオスの農村に残された不発弾は、約50万トンにも及ぶと推定しています。

ラオス政府の国家社会経済的開発計画は、貧困層地域と不発弾の存在には、明らかな相関関係にあると発表しています。貧困層地域は、ほとんどが不発弾によって影響を受けているのです。

地図:アメリカ政府のデータに基づく攻撃跡地。爆撃地、B25による攻撃地、枯れ葉剤による攻撃地
地図:ラオス最貧困地域と貧困層地域



日常生活のなかで起こる被災事故


■ スクラップメタル問題

1975年以降、ラオスの不発弾の犠牲者は、約1万3000人と見積もられています。

1999年以降、UXO−ラオが活動した地域でも938人の被害者が記録されています。被害者の50%以上が子どもで、不発弾事故のほとんどは被害者の日々の日常生活のなかで起きています。

ラオスでの不発弾事故のよくある原因には、農民が土を掘るために土壌表面にあった不発弾を鍬や鋤などで打ってしまう場合があります。その他のケースでは、隠れた不発弾の上で焚き火をして爆発する場合や不発弾を移動させたり、不発弾で遊んだりしているとき、もしくは金属や火薬を売るために不発弾をいじくっているときなどに事故が起きています。



■ 被害者の声(テラ・ルネッサンス取材)

<牛飼いの子どもたち3人が死亡>

MAGのチームリーダー、ボープヘット氏 安全になったジャール平原で遊ぶ子どもたち


ラオス最大のミステリー「ジャール平原」。大昔の人の遺産が転がり、現在は観光地としても知られるこの平原も、クラスター爆弾の被害を受けている。

ジャール平原サイト3(サイト1、2、3がある)の近くの村で不発弾撤去作業にあたっているMAGのチームリーダーに聞いた話だ。

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2005年だった。

パーサイ郡シェンディ村の子どもたち3人が牛の上に乗って、ジャール平原のサイト3を移動していた。3人は牛を放牧させるために牛を追っていたのだ。

そこは、MAGが当時撤去作業をしようとしていた場所。
しかし、村人たちにとって不発弾があろうとなかろうと、生活のためにはどうしても入らなければならないところであり、牛を放牧させるためにこの3人の子どもたちも普通に入っていたのだ。

一人の少年が牛から飛び降りた。そのときだった。
ちょうど飛び降りたところにクラスター爆弾、ボンビーがあったのだ。

少年の体重の重みでボンビーが爆発。
牛に乗っていた2人の子どもも合わせて、3人とも死んでしまった。

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当時もこのサイト3で撤去チームのリーダーを務めていたボープヘット氏は、悲しそうに当時の事故を振り返った。

 


< それでも運が良かった>

当時を語るルー氏


ラオス・シエンクワン県カンドン村に暮らす、不発弾の被害者、ルー氏(31歳。モン族。奥さんと3歳の息子の3人暮らし。2007年時点)に話を聞くことができた。

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2005年10月25日、午後2時だった。

ビエンチャンに引っ越した両親からある、種類の薬用のハーブがビエンチャンで高く売れるので、探して採取するようアドバイスをもらい、森へ探しに出かけた。

村から1kmほどの森の中で、薬用のハーブを見つけ、根元を鎌で強く打ちつけたときだった。そこにあった不発弾が爆発し、ルー氏は気を失ってしまった。

その晩、いくら待っても帰ってこないルー氏を心配した家族は、次の日の朝、ルー氏を探しに森へ行き、午前9時、ルー氏が不発弾の爆発によって倒れているのを発見した。
両目とお腹と心臓の近くに破片が刺さっており、病院へ連れて行くために彼の従兄弟が車を用意した。

しかし、ようやく病院についたは、午後になってからだった。

病院では一命をとりとめたものの、両目は失明し、いまだに3つの破片は体の中に入ったままだという。もし取り除こうとすれば、彼の心臓に負担をかけるためにかなり危険な状態になると医者は判断したそうだ。

(ルー氏は、事故が起きてからのことを次のように振り返った)

事故が起こってから病院について、ようやく意識を取り戻した。 ただ、あまりにもひどい痛みで、何も話すことが出来なかった。
でも、自分は運が良かったと思う。

なぜなら多くの場合、村の近くで爆発音がしても、それは日常茶飯事のことなので、村人は気にしない。牛や動物達が森のなかで事故に遭うことはよくあることだ。

自分の場合、家族が家に帰らないのを心配して、森の中に探しに来てくれたから助かった。しかも家族が見つけてくれた日の夜は、ものすごい雨が降ったんだ。 もし次の日の朝に見つけてくれなければ、確実に死んでいただろう。

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通訳をしてくれたMAGのスタッフは、地雷と違って、クラスター爆弾や不発弾の事故の場合、多くは亡くなってしまうという。他の事故のケースでは、破片で即死したり、森の中で誰にも見つけられずに亡くなってしまうことはよくあるのだ。ルー氏が、『運が良かった。』と言ったのには驚いたが、命の大切さを改めて思った。

その後、彼は目が見えないために仕事ができず、家にいるだけで、すべて奥さんが生活の面倒を見ている。奥さんは、栽培した野菜などを売って生活している。生活はとても厳しく、特に彼の面倒を見てくれる奥さんが病気になったときには、他に彼の生活を支える人はいないことを心配していた。

NGOや政府からの支援は、何もないという。それどころか、不発弾の事故の治療費もすべて自分たちで払わなければならなかったという。

彼は、稲やジャガイモ、とうもろこしを山で育てていたが、こうした仕事は奥さんだけでは大変な作業であり、できれば自分も何かトレーニングを受けて生活を助けたいと語っていた。



日常生活のなかにある爆弾 〜モン族の村を訪ねて〜


■ 2009年ラオス中学校開校式ツアーで、モン族の村を訪れたときのこと

アスファルト舗装された幹線道路からはずれ、ぬかるんだ細い道を少し入って、私たちを乗せた車は止まりました。その先は徒歩です。見上げればバナナの木や熱帯の植物がうっそうと茂っていて、足元にはあひるやら子豚やらがしげみの中をかくれんぼ。

しばらく行くとぱっと視界が開けてサッカー場が広がります。
たくさんの男の子たちが、木で作ったコマをひも一本でうまく操って遊んでいました。

夕暮れそまる空。村の中はたくさんの大人と子どもたちでにぎわっていました。
木々の家。薪のかおり。子どもたちの声。のんびりとした田舎の風景。


「なんだかほっとする。なつかしい感じ。」


その村を訪れた私たちみんなが口にした言葉。昔の日本のような風景。
中には都会でしか育ったことのない人や、“昔の日本”を知らない人もなぜか郷愁を感じる平穏な景色。



そんな穏やかな風景に溶け込む“ふさわしくない景色”がそこにありました。
あまりにも自然で違和感を感じさせないほどです。

あっちを見れば高床の小屋の脚は爆弾で支えられ、こっちを見れば、真っ二つになった爆弾がプランターとなってネギが立派に育っています。少し歩けばたくさんの爆弾が“鉄の塀”となって家を囲んでいます。人々の生活の中で爆弾は“恐怖”の存在ではなく“普通”の存在となっている事実を目の当たりにした瞬間でした。



爆弾の鉄くずは人々の生活資源となっているそうです。
ラオスで鉄は貴重な資源。また、人々にとっては大きな収入源ともなっています。
高額で引き取ってもらえるため、危険を顧みず不発弾に手を出し、怪我をしたり命を落としたりするケースも後を絶たないそうです。


目の前に広がるあまりにも平和で何の変哲もない人間の営みと、不発弾や爆弾片があたりまえにある生活とのギャップを目の当たりにして、複雑な心境になりました。
信じられないような、あまりにも大きなギャップを受け入れられず何も考えられないような、複雑な心境に・・・。ただ、この二極は一緒に存在すべきではないことは強く確信しました。


(プレマ株式会社スタッフ:岩本莉依)


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