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社会貢献活動 - 鬼丸昌也氏と中川信男 対談(2)
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鬼丸昌也氏(テラ・ルネッサンス 理事長)と中川信男 対談(2)

■誰にでも未来を造る「力」がある

人のために人生を捧げようと思われたのはなぜですか?

中川 鬼丸さんは大学在学中に、ここまでお聞きしたような、今のあまりよい状態とはいえない社会に一石を投じる活動を始められ、4年生のときにテラ・ルネッサンスを興されたということです。一般に国際支援というと生活に余裕のある人たちがやるようなイメージを持っているかたもいると思いますが、どうして大学生のときに活動を始めたのですか?多くの学生が自分のために就職活動をしているときに、人のために人生を捧げようと思われたのはなぜですか?

鬼丸 そうですね。それには、ふたつのきっかけがあります。中川社長はスリランカに行かれたことはございますか?

中川 スリランカは、まだ行ったことがありませんが、ぜひ行きたいと思っている国です。

鬼丸 高校3年生のときにさかのぼりますが、スタディー・ツアーに参加しスリランカに行きました。スリランカにはリトル・ガンジーと呼ばれているかたがいます。サルボダヤ運動という農村開発運動、つまり村おこし事業を興し、ノーベル平和賞の候補にもなったアリヤラトネ博士です。

その村おこしとは、こういうものです。まず村人全員を集めます。そして村の問題をリストアップしていき、問題に優先順位をつけるのです。たとえば「女性が子育てのために働けない」という問題があれば、保育園をつくろうと考えます。全員で考え、集まった村人のなかから出せる人が資金を出す、働ける人が労働力を提供するなど、みんなで問題解決のための話し合いをし、それを実施していきます。スリランカには12,000の村があるのですが、まさに8,000の村がこの方法を採用しています。

中川 多くの村が取り組んでいるのですね。個々の問題をその当事者だけでなく村のみんなで考え実行するとはすばらしい。経営者の視点からもその方法がどれだけパワフルなものか想像できます。

鬼丸 パワフルでありながら、その根底に瞑想や仏教的な考え方などがあり、ゆるやかで穏やかな革命となっています。そのアリヤラトネ博士に言われた次のような言葉がきっかけのひとつになりました。それは、

アリヤラトネ博士の言葉がきっかけになりました

「自分のような老いぼれはもう先はそんなに長くないが、君たちのような若い人にはたくさんの未来がある。きみがもし何かを始めよう、何かを変えようと思うなら特別な技術はいらない。ただひとつだけ忘れないでほしいことがある。それは、障害の有無や性別や年齢にかかわらず、誰でもどんな人にも自分と社会の未来を創造する、造り出す能力があるということだ。しかしその能力がなんであるかを探ったり人と比べたりする必要はない。大事なのは一人ひとりに必ずあるということを信じることだ。一人ひとりに未来を創るちからがあると信じることが人間の信頼につながり、社会を変革する勇気になる。だから『特別』は何もいらないよ。」
という言葉です。

中川 「誰にでもすばらしい未来を造るちからがある」、私もそう思います。その農村開発運動というのは、どのくらい続いているのですか?

鬼丸 もう30〜40年以上続いています。スリランカには戦争もあり、いろいろな問題を抱えていますが、この運動はしっかりと根を張っています。

中川 そのアリヤラトネ博士の言葉を高校3年生のときに聞かれた…。

■初めてのカンボジア

阪神大震災のボランティア団体「神戸元気村」の代表と出会ったのです

鬼丸 はい。この言葉がきっかけのひとつになりました。その後大学に進学しました。ぼくは5人兄弟の長男で、いちばん下の弟はまだ小学6年生なので、新聞奨学生の制度を利用して進学したんです。その後ご縁があり高槻市内のカラオケ店の社員寮に住みこみで深夜のバイトをしながら大学に通っていました。

そして阪神大震災のボランティア団体「神戸元気村」の代表と出会ったのです。代表のかたは当時「こころの火」の活動をされていました。これは広島の原爆の残り火を全国に分けてまわり人から人、手から手へ平和を祈る心をつないでいくというものです。火は大勢の人の心と手に守られて分燈されていきます。ぼくはその活動に共鳴し、分燈する場所を探すお手伝いを始め、そのまま勢いで2001年2月に神戸元気村に就職しました。

中川 在学中に就職されたんですね。

鬼丸 はい。そのころ、神戸元気村ではカンボジアの地雷除去の支援をしていました。

中川 今の活動とつながってきました。

鬼丸 初めて現地に行き、さまざまなショックを受けました。そのひとつは地雷の除去現場は音のない世界だったということです。たとえば今でしたら、コーヒーを飲んでいる音や誰かが仕事をしている音などいろいろな音がしています。しかし地雷の除去現場は地雷を探す金属探知機の音がたまに鳴るくらいで、音のない死んだ世界でした。

中川 生活音のない世界ですか。

鬼丸 いっぽうで地雷原のなかで生活している人たちがいました。どこに地雷があるかわからないなかにたくさんの家が建っているのです。そんな場所で人々はたくましく生きています。カンボジアは長い内戦の歴史を持つ国です。そのうち3年間はポル・ポトという自国民の大虐殺をしたことで知られる人が首相となりました。ぼくは虐殺の現場を訪れ、その当時を生き延びた人の話を聞き非常にショックでした。何より衝撃を受けたのは、ポル・ポトが政権を握っていたのが1976年から1979年だったことです。1979年つまり昭和54年は何があった年だかわかりますか?

私は9歳のときです

中川 昭和54年、何でしょう。私は9歳のときです。

鬼丸 じつは、1979年はぼくの生まれた年なんです。ポル・ポトの圧政、大虐殺という出来事が、歴史の教科書でしか知り得ないような過去のことではなく、ぼくが生まれた同時代に行われたということ、つまり、同じ時代に生きて同じ空気を吸っている人が虐殺をしたり、されたりしていたのだということにショックを受けました。「同じ人間なのになぜだろう?」という疑問がわき、また「自分には何ができるのだろう?」と考え、考え抜いて最初に出た答えは「自分には何もできない」でした。

地雷除去のために特別な技術を習得しているわけでもないし、その活動を支えるような金持ちでもない。「それでは自分には何もできないじゃないか」というあきらめのなか、「しかしそれで本当にいいのだろうか」と思い直し、さらに考えた結果「これを人に伝えていくことならできる」と思いました。見たままありのまま、事実を伝えよう。一介の若者が世界平和を訴えたところで「甘い」と一蹴されるかもしれないけれど、現地で実際に起きている事実は誰も否定しようがない。それを「伝えよう」。

そこで帰国してすぐに友人に声をかけ講演会を開きました。2回目はネットワーク地球村の事務局で講演しました。その際九州から聞きに来ていたかたが感動して宮崎に呼んでくださり、熊本、鹿児島と次々にクチコミで広がって、その年だけで90回の講演をしました。

中川 伝えることに思い至り、その年だけで90回ですか!

鬼丸 90回お話をするなかで気づいたのです。現地での活動はもちろん大切ですが、日本人であるぼくは、やはり日本で現地の事実を伝えたい。子どもたちも含め多くの人たちに伝えていくことをとおして、その原因を変えていく仕事をしたいと感じました。それで2001年10月にテラ・ルネッサンスを創ったのです。

中川 お話を聞いていると、常に人と人との出会いがあってここまで来られたという印象があります。もちろん常に努力もされてきたと思いますが、縁のある人たちにを支えられ、何か決断したときにはそれを後ろ押しするかのように、既成事実が次から次に押し寄せてくるといった体験をされているんだなぁと感じました。

鬼丸 はい。

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